日米コンピュータ競争と著作権法
前稿で日米の著作権法の歴史の話を簡単に触れたが、プログラムが著作物として法律で保護されるようになったのは米国が1980年、日本が1985年だ。
この時期にプログラムにも著作権が認められるようになったのはまさしくその時代が求める必然だった。
当時のメインフレームの市場は1960年~1970年代にかけてIBM(System/360等)がほぼ独占状態、価格も強気の設定がされ次期の研究開発に潤沢に資金が供給されるという、まさに名実ともに理想的なコンピュータの王者になっていた。
欧米や日本のメインフレームメーカーがそれに立ち向かうにはIBM機で動作するミドルウエアやアプリケーションがそのまま動作する互換機を低価格で提供することで対抗するいわゆる「互換機ビジネス」を進めていく以外に選択肢はなかったといっていいだろう。
日本勢が初めてIBMに戦いを挑んだのが富士通のMシリーズで1975年に発売している。 もちろん、日立、NEC、東芝、三菱電気等がそれに続いた。
そのような中で米国では1790年に制定された「旧著作権法」を大幅に改定した「現行著作権法(米国1976年法)」を成立させたのが、富士通参入の翌年1976年だったというのも米国の用意周到さが見え隠れする。
まあ当時のIBMのメインフレームは国益に直結していたことを考えるとさもありなんということだろう。
更にその4年後の1980年には米国で初めてプログラムを著作権法で保護するという法改正を行っている。
これでIBMのSystem/360をはじめとしたメインフレームのすべてのプログラムは法律で守られることになったのには、さすがに各国の「互換機メーカー」から非難の声があったが、米国にとってはある意味内政干渉、「大きなお世話」ということになる。
そのような時代背景の中でかの有名な「IBMスパイ事件」がおきる。 その経緯を年別に整理してみよう。
1980年
米国で初めてプログラムを著作権法で保護するという法改正を行った。
1981年
互換機メーカーが台頭を始め、次第に追い上げられたIBMが満を持して発表したのが超大型機3081K (System/370-XA)で、互換機メーカーの解析が困難になるような対抗手段、すなわちOSのファームウエア化や熱伝導モジュールが搭載された。
1982年
日立製作所(以下、日立)は米国の取引先N社から3081Kの技術文書を入手するところまでは予定通りといったことろだろう。 しかしその後、同じく取引のあった米国のコンサル会社P社(社長は元IBM社員)の巧みな交渉により、日立がすでに新型機の技術文書を保有していることIBM社に通報されてしまう。
そこからIBMと組んだFBIが「おとり捜査」を実施、何も知らない日立は見事に引っかかり組織ぐるみの犯行であることが動かぬ証拠をもって立証されてしまい日立の工場長を含む6名の社員に逮捕状がでてしまった(三菱電機の社員も一人逮捕)。
これがIBMスパイ事件のダイジェストだ。
立法府、行政(FBI)、民間(IBM、IBM系コンサル会社)の絶妙な協力関係、結束力は見事だというしかないだろう。
しかし時代背景や国益などを考慮すると順番はともかくこのような衝突が起きるのは必然だった。
1983年
日立は1983年2月に刑事事件を司法取引により解決、10月には民事も起きたが、損害賠償と5年間の監視期間を設定するなどの条件で和解した。 その後は日立製作所はIBMとの提携路線に転じてIBM互換ビジネスをむしろ拡大していった。
一方富士通はIBMができたばかりの著作権法を盾に提訴していることを日立などより先に察知ており1982年年末よりIBM社と極秘裏に交渉を繰り返し1983年に日立と同等の協定を締結したとされている。
興味深いのは「あらゆるソフトウエアは自由に利用すべき」という理念もとにオープンソースソフトウエアを推進する団体GNUプロジェクトが米国で生まれたのもこの年、翌年の1983年だった。
1984年
この年、富士通は協定違反を指摘されてからは対決姿勢を鮮明にした結果、4年後の1988年にようやく和解をしているが、当然互換性確保は限定的となっていく。
日本電気はACOSシリーズを継続しながら開発の比重をオープンシステムに移していった。
1985年
IBMと富士通が係争中のこの年に、日本でも著作権法の対象としてプログラムを追加することになったのも自然な流れであろう。
ただ、コンピュータはIBMにやられた企業たちがより使いやすく安価なミニコンやワークステーションを生み出し、更にビルゲイツ氏やスティーブジョブス氏が個人用コンピュータ(パソコン)というイノベーションを起こしていく。
1990年代にはパソコンが爆発的に普及したこともありかってのメインフレームは次第に存在感が薄れて行く、そしてIBMは次第にサービスビジネスにシフトしていかざるを得なくなる、というのも時代の必然ということだろう。
次稿では、日本の著作権法の中でプログラムの保護がどのような条文から構成されているのかを簡単にみていこう。
(続く)
2016年8月6日